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川甚の歴史
| 江戸時代、帝釈天の宵庚申には夜詣りの人が絶えず、その灯りが夜道に遠く続いていたといいます。帝釈天は正式には経栄山題経寺という日蓮宗のお寺で、一時行方不明になっていた本尊が再び発見されたのが安永8年の庚申の日だったことからこの日が縁日にさだめられました。 |
- 帝釈天の裏手、江戸川の土手ぎわにある川甚は寛政年間(江戸後期・1790年代)の創業で、明治時代までは舟でみえたお客様がそのまま座敷に上がれるほど川べりにありました。(屋号は江戸川の川と初代甚左ェ門の一字からとったものです) 川の水もきれいで建物の下の川中には当店の生け簀があり、お客様がみえると若い衆が江戸川清流産の鯉・鰻をたも網ですくい上げて料理しておりました。
- 土手も今のような外灯もなく、仲居さんが白い提灯を手に河原から土手までお客様をお見送りし、その光景は大変風情があったといいます。
- その後、大正7年の河川改修で建物は土手の外に移され、昭和39年東京オリンピックの年、再度の河川改修によって現在の4階建てのビルになりました。 これも時の流れというものなのでしょう... しかし本館から眺める川面のたたずまいは多くのお客様の心を和ませてくれるでしょう。
- お客様には都心を離れた自然の中で昔ながらの川魚料理を召し上がり、心和ませるひとときを過ごしていただきたく思います。
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50年ほど前の写真でしょうか?奥のほうが玄関で下足番が座ってこちらを見ています・・・って小さくてよく見えませんね。
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当たり前かも知れませんが昔は板場も木造でした。今でも現役の板前さんも写ってます。
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川甚を愛した文人たち
川甚は柴又を訪れる多くの文人達にも愛されてまいりました。
| 大町桂月は、ボートで銚子まで行く第一高等学校 (現在の東京大学)の学生達を座敷に呼び 一杯振舞った、と 「ゆく舟」のなかで 自ら書いています。 また 尾崎士郎「人生劇場」では主要舞台として登場しており、主人公の青成瓢吉がお袖と出会う「柳水亭」とは川甚のことで、モデルになった女性は当時の仲居さんです。いくつか写真を見せてもらった女将によると「ポッチャリした可愛らしい人」だったそうです。 そうした小説に登場していた頃の風情は時代とともに薄らいできてはおりますが、文人達の思い出は今もなお暖簾とともに生きていると信じております。 |
小説より抜粋
| 夏目 漱石 | 「彼岸過迄」より | 敬太郎は久し振りに晴々としたよい気分になって水だの岡だの帆かけ舟だのを見廻した。……二人は柴又の帝釈天の傍まで来て 「川甚」という家に這入って飯を食った。 |
| 大町 桂月 | 「東京遊行記」より | 十二時に近し。午食せむとて川甚に投ず。鯉、鰻来て膳にのる。 これを肴に酒を呑む。 |
| 幸田 露伴 | 「付焼刃」より | 汀の芦萩は未枯れ果てゝいるが堤の雑草など猶、地を飾っている。水に臨んでいる「川甚」の座敷は……。 |
| 田山 花袋 | 「東京の郊外」より | 藍のような水に白帆がいくつとなく通っていくそこには、「川甚」という 川魚料理店がある。 |
| 谷崎 潤一郎 | 「羹」より | 巾広い江戸川の水が帯のように悠々と流れて薄や芦や生茂った汀に川甚と記した白地の旗がぱたぱた鳴って翻っている。 |
| 尾崎 士郎 | 「人生劇場」より | 道が二つに分れて左手の坂道が川魚料理「柳水亭」(これは後の川甚)の門へ続く曲り角まで来ると吹岡は立ちどまった。 |
| 林 芙美子 | 「晩菊」より | 晩夏でむし暑い日の江戸川べりの川甚の薄暗い部屋の景色が浮んでくる。こっとんこっとん水揚げをしている自動ポンプの音が耳についていた。 |
| 松本 清張 | 「風の視線」より | 車はいまだにひなびているこの土地ではちょっと珍らしいしゃれた玄関の前庭にはいった「川甚」という料亭だった。 |
文士達が残した色紙
尾崎士郎(上中央写真) |
三島由紀夫・杉村春子 |
松本清張 |